昭和43年06月27日 朝の御理解



 御神訓 一、「疑いを去りて信心してみよ みかげはわが心にあり。」

 ここの「わが心」というのは「我れ」という字が書いてある、「我」ですね。この「わが」という字を使ってあるのが他にもありますね。その次ぎの1、2、3、4番目に「祈りてみかげのあるもなきも わが心なり」というのもやはり我が、自分われの心と書いてありますね。それから天地書付にみる和賀心といのは和らぎ賀ぶ心でしょう、真の道の心得の1番初めにあります、「今月今日一心に頼め おかげは和賀心にあり」というのも、これは和らぎ賀ぶ心とありますね。
 ですから金光様のご信心のこのおかげと言うのは、もう和賀心になることそのことがおかげを受けておることですけれども、そういう心になったらおかげが、まあ頂けれるというのですね。次の霊験はわが心にありと、ここに疑いを去りてとね、「疑いを去りて信心をしてみよ みかげはわが心にあり」ここんところが、信心さして頂く者のそれでも楽しみではないかと思うのですね。いわゆる神様が疑えば限りがない、目にも見えない声も聞こえない神様を信じて行くというのですから。
 ところがこちらが打ち込んで信心さして貰うといわゆる確信、いわゆる不動の信念とでも申しましょうか、不壊の心もう壊れない、誰がなんと言うても壊れない、不壊の心不動の心というのが生まれてくる。これはいよいよ神様を疑いを離れてね、「疑いを去りて信心をしてみよ みかげはわがこころにある」と仰言るように、疑う余地がない(余地?)くなってくるんです。
 初めの間はまあ半信半疑ね、その半信半疑の神様が段々もう疑う余地がない。というところまで信心、ですからね、信心はもう結局限りがないです。限りがないものに取り組むというところに信心の素晴らしさというか値打ちがあるようですね、人間の知恵とか力ていうのは限りがあるけれども限りがないのいうのは、おかげのほうにも限りがないのですよ。もうこれは何処までいっても尽きることがないです。ですから楽しみなんです、これでよいと言う事がないんです。もうこれだけの事がわかったからというて腰掛けるわけにはいけんのです。
 けれどもそれはきつい事ではなくてから楽しゅうして楽しゅうして、と言う事になり、しかもそれにはね限りないおかげが伴うていくから有り難いのです、いわゆる霊験が伴うていくから。ここん所をですね、まず段々把握していかなければならない。そこでこの「疑いを去りて信心してみよ みかげはわがこころにあり」という、わがこころはね、わがこころとはどういうことか。自分の心とこういうのですね。もう自分の心というのはどういう心か、いやどういう心にこの霊験があるのかと言う事になるのですよ。
 そのわが心というのがね、ならどう言う事かというと、神様を信じて疑わないと言う事という心。こりゃだから和らぎ賀ぶ心とは全然本質的に違うですね。私共知っている限りでも随分信念の強い人がありましてね、ほんとに神様を信じ切ると言う事は、まあこりゃ言葉が過ぎますけれども、本当に信じてですね、もうガムシャラに教導していく先生がありますね、昔の先生方には随分ありましたよ。だからそういう所謂、先生が信じられるとゆう神様を信じて疑わずにお取次をなさるから霊験が現れて来るのですね。
 ところで金光様のご信心ぶりというのは、矢張りこれだけではなくて、いや本当は「おかげは和賀心にあり一心に頼め」、和賀心ね和らぎ賀ぶ心にありという、ところが和らぎ賀ぶ心になることが本気で、努めさしてもらう、だからというてもそりゃ穏やかな心というものができてきますよね、ほんとに和らいだ心というものが、おかげおかげとすべてのことを喜びで受けて行くおかげとして受けていけれるという和らいだ心というものは有り難いんですけれどもね。
 これはあの信念がこのおかげを呼ぶというかね、神は信ずる者を信ずると言う様なおかげになってこない。だからこの二つがねいよいよ極められていくために信心の稽古をしなくちゃいけない。「大丈夫、おかげになる」これは和賀心と同じじゃないんですよ、いわゆる、これは我れの心なんです、我の心がそう信じているのです。その信じておる心がですね、お蔭をここに呼ぶのです。
 例えば奇跡的なおかげというのはね死人がよみがえる様な、奇跡的な霊験というのがですねいわゆるそれは信ずる心から生まれて来るのです。所が私は思うのですけれど、この二つの心をですね、いよいよ極めて行こうという所に信心の根本的な姿勢というものがあるんです。もう信心は此れ二つ、この二つをね、どうすれば自分の心の中に和らぎ賀ぶ心がいただけるかと、どうぞ神様私の心の上に今月今日ただ今私の心の上に、和らぎ賀ぶ心を与えて下され、ところが和らぎ賀ぶ心になれない。
 なにが邪魔をして喜ぶ心と反対の心になってくるのかと検討していく所にね、我情があり我欲があり、いわゆる汚い根性があるところにです、喜びの心というものを吸収してしまう。そこで本気で改まろう本気で磨かしてもらおうということになって、そこから生まれて来る心が和らぎ賀ぶ心だ、しかもこれは限りがないのです。和らぎ賀ぶ心というのはもう限りがない。その限りのないものに取り組んでいるということね。そこに信心がおろそかにできないという訳が、それがね鈍って来るんですよ。
 和らぎ賀ぶ心が曇って来るんですよ。又はわが心にありという、神様を信ずる心がですね鈍になって来るです。鈍るそこでもう絶えずこの信ずる心を、狂わせないための信心修行というのが何時も心掛けられとかなければならない。又その心掛けると言う事が実は有り難いのですよ。ですからこれはもう何と申しますか信心さしてもらうと「人間を軽う見な軽う見たらおかげはなし」とこう仰言るが、私はそれを人間だけではない、全ての事を軽うみちゃならないという訳ですね。
 もう軽うみたらお蔭はない、軽うみると言う事はもうすでに慢心だと、事の事態と言った様なものでも。私は昨日誰にだったでしょうかね話した事でしたけれども、昨日土居の共励会で、善導寺の丁度正義さんの所でございました。それのお届けがありました時に、私感じたんですね。これはもう土居の人達がもう本とに確信しているのですね、というのはもう土居の共励会の時にはね、もうまず百姓の方達が多いですから、もう百姓のいそがしいという時なんかに当たらないと言う事を確信しているです
 。例えばどんなに田植えという時でも合間合間を縫うようにして26日というのが今まであって来た。神様に26日という日は確かに神定めの日であるなあと、だからこの日だけはどんなことがあっても動かされない、そして共励会が続けられて来た。ところがその前の日に久富さんのお届けを聞かしてもらったら、その前の日にですよ、明日から田植えが始まりますとこう言う。より昨日から始まっている、あれが25日だったら田植えもなにもなっかたでしょう。
 たった一日の事で田植えにかかる訳ですよ、勿論それは土居の方達は熱心なんですから田植えぐらいのことは問題じゃない、問題じゃないというがそこを切り上げて、やっぱり全部お蔭頂いておられますけども、そん時に私が申しました。「あいたこりゃちょっとばかりずれたね」と私が申しましたね、ちょっと狂うたんだとたった一日それがね【 】今日私が言うところのですねわが心ですね、和らぎ賀ぶ心じゃないですよ、この我れの心こんな心がね鈍ってくるです。ここをいい加減にしよったら。
 そこんところをです、私はほんとにあの言はば元をとっとくというかねえ、そこの1分でも1秒でも違うておるならあわせておかんと先々ずうと狂うてくるです。信心させて頂く者はそういう所が大事です、「狂うたぞ、これはずれた。これは土居の方達じゃあない」私の信心です、私の信心がちょっとこらあ狂ったなと、こういう風に思うのです。皆さんそこんところをね、私が言う軽うみたらいけないと言うのです。はあ神様のご都合、それを有り難く受けて行く。
 神様がお試ししござる、この田植えのいそがしいとにでも集まってくるかどうかと試しござる、さあここを落第しちゃならんというて、まあ何もかにも振り捨てて信心の方に向かう、ここが有り難い。けれどもここん所はほんとにちょっとした狂いではあり、ずれではあるけれども、ここん所をずれをずれと認めてここを改めて行こうとするような心がね、ございませんと、ここには「疑いを去りて」とこう言われるでしょうが。神様でちゃ間違いなさるといったような事になってくるんですよ。
 神様の方は絶対間違わん、ただこちらがずれておるだけ。よくサーカスなんかに行くとね、手裏剣をなげるのがありよりましょうが、人間を立てておってから。もうこう指をこうやってこう壁の前に立ってるでしょうが、もうここに刺していくですからね、熟練とは大した事ですよ、首のここにズバッズバッと入って行く。もう身動きが出来ん様に手裏剣が入って行く、頭のうえから子供の時に一遍そんな見た事がありますがね。
 どうした素晴らしいことじゃろうかと言う事と同時に、その前に立っておるその人の、が素晴らしいですね。その手が人間のことですから狂いますよ、狂うことのないではなかろうと思う万が一、もし狂うたら自分の首に刺さるとですよ。それを何間か離れた所からパアパアパアパアそれも早いです、そしてこうやって手を広げてるところの指一本の間の中に手裏剣が入っていくです、もう神技といったら神技です。けれどもそれを信じて前に立っておるということはもっと素晴らしいと私はおもうですね。
 ですからはっと思うて向こうから投げるのにですよ、ちょっとよけたらもうほとに首はねちゃう、微動だもできん。信心はそうです、もうこれは手裏剣投げよりかもっと間違いないとですよ、神様のお蔭というのは、絶対のものなんです。それが例えば一日狂うたということはね、これはもう大変な狂いなんです、言うならば。そういう所をですね、私共があのね本とにどこにお粗末ご無礼があるとやら分からない、又そこん所を分からしてもろうて改めて行く、そこから又元に戻る所のお蔭が受けられる。
 そこにです、いよいよ神様は間違いがないなあ。こちらにさえ間違いがなからにゃ神様は間違いがあるお方じゃないなあと、いう不動の信念いわゆる確固たる信念が生まれてくるのです。ここに修行がいると思うんです、しかもこれは限りがないのです。昨日お道の新聞をちょっと見せて頂いておりましたら、玉水の湯川先生のお話しがちょっと出ていました。それにね、皆が病気にかかった、病気にかかるとね、すぐ自分で墓穴を掘ると言うておられますね。こういう所がねいわゆる信念がないからです。
 例えばねお医者さんが首をひねりなさると、はあ是が又ひどうなって難しかっちゃなかやろうかと、自分な是で命を落とすとじゃなかじゃろうかと、もうこう思いよる時はもう自分で墓穴を掘っとるとですよ。そこの辺が稽古がでけていくと言う事は、それでこげん楽しい事は無いです。例えばなら私がもう7、8年間もでしたでしょうかね、足が立たなかったでしょうが全然、立つかと思うともう全然足がなえてしまう。皆さん方もその間見ておられてから、私がこれから先でも微動だもしませんでしたでしょうが。
 さあこれはどうしたこっちゃろうかと、原因の追及もしませんでした。もう神様のご都合おかげと、いはゆる自分で墓穴を掘らないわけですよ。それはねここに神様をしんじる力があるからなんですよ。なら私が糖尿病になったから、皆さんが色々心配して下さいます。けれどもね私は糖尿病でおかげを落とすと言う事を、まあそんなこと思いもしませんですね本と言うたら。それで私が墓穴を掘るような考え方というものは、ほんとに自分の心の上に起きて来ないです。
 ここん所をですね、信ずる心というものを極めて行くというのが必要なんですよ。さすがに湯川先生のお言葉だとおもうんですよ。病気をするともう墓穴を掘る、次ぎにこう言うとられます。金が無い金が無いと言うとすぐこもをかぶってしまう。いわゆる乞食のことを、おこもさんというでしょ、いわゆる貧すりゃ鈍するというのですよ。もうこのことこそ自分自身の事で根限りの貧乏をしてまいりましたけれども、貧すりゃ鈍すると言う事がなかった事を自分で有り難いと思いますね。
 いやむしろかえって美しくなったです私は、本とに自らこもをかぶる、自ら乞食になる、下さい下さいばっかり言う。これではおかげは頂けない、こりゃどう言う事かというと、わが心でおこもさんになるのだと、わが心で墓穴をほるのだと言う事なんですよ。ですからね、そういう例えば病気なら病気、難儀なら難儀という問題をね取り組んだ時に、例えばならこれは、私がこれはそう言う事に精進したという時ですね、例えば怪我を致します。昔の方達はもうお神酒さん、又はお土でおかげを受けたんですね。
 確かにお土にはそういう一つの働き力が、霊力があるんですよね、キズを癒すという。それはですね医学的にもそれはやっぱ土の中にはそういうものがあると言う事が、言われておりますですねやはり。昔の篤信の方達なんかは私の婆々なんかは、こう転ぶでしょう、膝をすりむくと「はあ金光様金光様というてすぐそこの泥を膝に塗り付けてくれよりました。だからほんとうに泥の御恩徳で傷が治るかどうかということを、私は自分で本気で、あのう取り組んだことがあります。
 そりゃもう足にわくわくするごと、杭を踏んでですねした時の、泥を付けておかげを頂きました。と言う様にですね、やはり小さいところからですね、あのやはり稽古していく必要がありますよ。大きいところからはできませんね、ですから小さい事柄からでもです、神様を信ずる力を与えて下さいという願いの元にですね、あなたを信じ切らせていただくためのおかげを頂かせて下さいという願いの元に、そういう稽古、そういう修行も必要だと思うですね。
 だからここでは薬をのんじゃならんとも、医者にかかっちゃならんとも申しませんけれどもです、まず医者にかかる前に薬を飲む前に、そのくらいの一遍稽古ぐらいしてからおかげ頂いたらどうかと言うのですよ。でないとですね、この霊験わが心、わが心とは此処では信ずる心という、そこんところを楽なほうへ楽なほうへ、祈れ薬れと仰言るからというて祈る、お願いをしてから医者にかかかる。祈らして頂いてから薬を飲む、それでも結構けどもそういう信心の状態の中から、いよいよの時に本当にです。
 確信の出来る。なる程この御体というものは神様が作なさったとだなあと、だから修繕は神様に頼んだとが一番確実だなという確信が持てれるくらいな信心と稽古が必要なんです。口だけ魂も肉体も神様が作られたんだと、そんなら作り主である所の神様に修繕してもらうのが一番いいじゃないね、そこんところの力の足りない所、弱い所を薬だ医者だというのですから、私ほんと言うたらここん所を詫びぬいて謙虚な心で、私に信ずる心がないから、確信が本とにないからお薬を頂いているんだというですね。
 私はお詫びがいると思うですね謙虚な態度でその事に当たっていかなきゃいけない。昨日今日が私は風邪の具合が一番昨日も悪かった。昨日夜の御祈念が終わってからすぐ休ましてもらいました。ですから昨日、もう昼から休んでおますからもう夜が眠れませんのですよ、暑くて汗が出てね。頭はも熱が随分あるんです、【 】早く起きとるですからね、その【 】それで起きたらもうべとべとですから、体を拭いてから出よりましたから、もうこちらへ出て来た時には4時前15分くらいでした。
 出て来てみて驚いたことは、食堂が電気がついていません。はあこれはしもうた、はよこちらの方へ出て来ておけばよかったとね、愛子が御神飯を御用頂いていますけれども、眠忘れとった。それから私は二階に走って行ってから起こしました。けれども間に合いません。ようやく4時の半ばにお供えしよりましたから、もう私4時の御祈念になったら4時前にちゃんと御神飯がなされる。以前にもそんな事が豊美がおかげ頂いたった時にもありました。だからこりゃもう愛子じゃないのですよ。
 私です昨日からもう間違い続けですよ。土居の共励会が間違うとる。昨日私はお昼してすぐ休ませてもろうとった、それで4時の御祈念には家内に起こすように言うて休んだ。それが悪かったね、神様にお願いして休みゃよかったんですよ、家内にたのんだっとが間違うた。したら若先生が、「親先生きついごたるけん、僕4時の御祈念するからもう起こしなさんな」と、こう言うたらしい。起こさない、さあもう目が覚めた時はもう5時です。もう狂うて来た、今朝の御神飯がもう30分遅れた。
 そういう時にですね、これもやはりあの、どこに狂いがあるかと言う事を分かることと同時に、そこを補うていく信心が必要なんです。私はだから今日は1日断食さして貰おうとこう思う。なぜて神様にも断食させとるので。私はですね狂うたと思うたらね、そこん所をね、まあ例えば時計が狂うておるなら、その狂うた時計が正確の所まで直しておかなければいけないようにですね、こういう心がけが大事なんです。そこに1分1厘の間違いのない働きがずうっと、ここの場合そうでしょうが。
 1分1厘の間違いのない働きが頂けて来るです。これが私がただそこに、御神飯が30分遅れたというだけでですよ。だけならいいですけれども、ここにこれだけ沢山の人の、例えていうならばおかげがです30分間狂うてご覧なさい、さあ手形があります、お願いします。3時までというのに3時半に出来たじゃでけんでしょうが。そういう例えば私には責任もあることですから、私のその狂いというものを改め直しておらんといけない、それで例えば狂うそれで間違う。
 それならばある意味あいで神様のご都合と頂ける事にもなる、又勿論お詫びをしていくと言う事もありますけれども。まあ私共が幾ら綿密に、おかげを頂いていっておるとしましても人間の事ですから、どこにお粗末があるやらご無礼があるやら分からない。ですからそこん所は、だけども形に現れて来た、例えば時計なら時計の文字盤に現れてきた。進んでおったり、遅れておったり、止まっておったり。こりゃはっきりそういうふうに現れて来たならです。
 まずこりゃネジがゆるんではおらんじゃろうかと、まず思はないかんです。こりゃ油が切れておらんじゃろうかと思うてみなきゃいけんです、こりゃどっかネジがいっちょ取れてはおらんじゃろうかとおもうて、裏を引っ繰り返して見なきゃいけんです。成程ここにネジがゆるんでおった油が切れておった、そこから又分秒間違いのない針の刻みというものが頂ける様にね、私共の行き方の上に、信心させて頂く者の上にはね、そういう一分一厘の間違いのない働きというものが、日々いただけて来る現れてくる。
 だからこそ成程、我が身は神徳の中に生かされてあるんだなあと、神様の御守護の中にあるんだなあという確信が生まれた来るから安心の生活ができる、どのような場合だって。今日は特に私はこの「疑いを離れて信心してみよ みかげはわがこころにあり」という、わが心について今日は皆さんに聞いてもらった。どうかあるちゃすぐ墓穴を掘るようなことはないだろうか。さあ金が足らんというたら、もう下さい下さいというお弧もを自分で被っておるようなことはなかろうか。
 これではねおかげは受けられんて、だから修行せないかん。修行するとそれが払う。例えばね、これが自分の命取りじゃなかろうかと、いうような不安な心が起こったら修行しなさい。不思議です、もう「ままよ」という腹ができるです。「ままよ」とはもう死んでもままよという、いわゆるもう安心の、最高の安心のおかげですよね、神様にお縋りしての事だから、もうどん腹が座る。そこからおかげがうけられる。そこを半信半疑でぐずぐずしておってはおかげも半信半疑。
 半分ですからお取次を頂いてお願いをして、ただお願いをしておかげを頂くという信心がです、続けられたなら、それから先には今日私が申しますように、和賀心と我が心。和らぎ賀ぶ心と自分の心。おかげはこの心にあると仰言るのだから、その和らぎ賀ぶ心の追及はもうこりゃ限りがない、何処までも。又自分が神様を信ずる力、信ずる心というものはです、頂くということにも。これは私が偉そうに言うとるけれどもですよ、私だってまあだまあだもう、弱いもんです。
 ただ私がね皆さんよりか少し信ずる力が強いと言う事じゃなかろうかね。先日からも。さあこれで店が潰れる、だからこれで手を打つとこういうのです。だからねもうそげな手を打つてんなんてんやめなさいて私が言う、そしてここでもうつぶれたっちゃよかじゃんの、あんた商売人じゃないか、まあだ若いじゃないか、いっちょゼロからやりなおさんの。親の商売を受け継いだ位の、そんなこっちゃつまらん。自分でいっちょやってごらんて。昔いわゆる元での無い商売人の事を一荷めぞ?といいよった。
 それこそ一荷めをかろうてからでも、呉服屋さんですから反物少しよそから借りて来て、それをひっかろうてからでもやろうていう気になったら、問題じゃなかろうが。こん親から伝わったこの店ば、この暖簾ばつぶしちゃならんと思うけん、もう死ぬ思いをせなならん。どうねいっちょ腹きめちゃどうかと、私が言った。私はこげんところなら本当に自分で安心しとる、腹決めました。と言う、もうそん時に私はおかげで助かったと思うですね、そげん時。
 私はそげん時はどうするでしょうか、もう長年続いて来たこのいはば老舗ですよ、この店が自分この人の時代になって、私のお取次によって潰れたなんていうたらどうするじゃろうか、というて私が思うていたらおかげにならんです。そこで本人に度胸をすえさす。そこで手を打つ事も何も致しませんでした。いはゆる放任して神様だけに一心に縋って来ました。もうそれから後のおかげというものはもう、しらごとのごたるおかげでしたよ。どげん考えたっちゃ不思議で不思議でたまらんようなおかげでしたよ。
 これは絶対私が信じた、そこからおかげを呼んだのです。又本人が度胸をすえたそれがおかげを呼んだのです、ままよというこころを出したのです。そういう例えば微妙なね、お取次をさしてもらわなきゃならんのですから。私自身、私【  】ね、ここにたった一日のずれと言った様な事を疎かにする訳にはできん、ただ30分遅れた御神飯が、ていう事をただ神様すみませんでしたと、お詫びだけじゃすまんて。ここん所を分からしてもらい、ここん所をなら一日二日ずれがちでございま。
 もうだいたい私、風邪をひいたと言う事がずれとる証拠だ、おかしい。ですからそういう所からここ一日二日私が狂うている所をですね、わたしが又元に戻すというかね、時計でいうならばきちっと正確な時に合わせておくという努力を、現在させて頂いておる所でございますけれどもです。そういう事が又非常に楽しいもんですね、信心というのは。ですから、この和賀心と我が心というものをですね、追及して行くということはね、もう限りが無い事、いはゆる一生が修行じゃと仰言るその事。
 そこにはね神様をいよいよ確信できれる、安心のお蔭と、いよいよ自分で自分の心が拝みたいような和らぎ賀ぶ心というものが、育って行く楽しみですから、こげなありがたい事はないとですよ。それを途中で、もうこのくらい喜べたらよかろうと、このくらい信じておれたらもうそれでよかろうと思う、そんなもんですか。ここに焦点を置いたら私は信心の方はろくそにはでけん、油断はできんと思うですね。
   どうぞ。